大徳寺の僧一休宗純(1394〜1481)に禅を学んだ村田珠光(1422〜1502)はそれまでの唐物中心であった茶道具に日本の信楽や伊賀などの素朴な茶陶を取り入れ、茶禅一味を旨とする幽玄閑寂の境地を求める侘び茶を創案しました。この思想は京や堺の富裕な町衆の間に受け入れられ、武野紹鴎(1502〜1555)によってさらに押し進められていきました。こうした堺の町衆のなかの一人千利休(1522〜1592)はやつしの美を表現する茶室や茶道具、作法を一体とする茶の湯の世界を大成しました。また彼は時の権力者である織田信長や豊臣秀吉の茶頭としても活躍し、天下一の茶の宗匠と称せられました。そして彼の茶の湯のスタイルはその後の茶の湯の展開に大きな影響を与えました。千利休は、織田信長の茶頭となり「茶室外交」をリードしました。信長は茶を通じて堺の商人たちと親交を深めたが、鉄砲や商人たちが持つ情報を手に入れることも狙いだったそうです。その後、豊臣秀吉の茶頭として仕え、ここでも外交として多くの大名らを招いて茶会を開き、政治にも深く関わります。ほかにも利休は、黄金の茶室を設計したり、二畳ほどの茶室「待庵」を創作、秀吉が主催した大規模な茶会「北野大茶湯(きたのおおちゃのゆ)」を演出するなど多才であったが、1591(天正19)年、理由は諸説あるが、秀吉の怒りを買い、切腹となりました。現在、利休が道を開いた「茶道」は三つの千家(「表千家」「裏千家」「武者小路千家」)などに受け継がれています。